白菊

五十数年の歳月と可憐な乙女
世の中豊かになり、いつしか過酷な戦争のことも次第に風化し、また語り継ぐ戦争経験者も少なくなってきましたが、いかに戦争が悲惨なものか私なりに経験したことを皆様に聞いて頂きたいと思い愚文を載せた次第です。
歴史は繰り返されるなどと言いますが、二度とこのような悲劇を起こさないように切に願うものであります。


太平洋戦争も敗色濃い 昭和20年 私も少年ながら「お国のために」と山口県光市の光海軍工廠水雷部本部庁舎へ学徒動員で勤務しておりました。
そして 昭和20年8月14日、生涯忘れることのできない経験をしたのでした。
その日 勤務している水雷部の食堂で当時の粗末な昼食の箸を持った途端、誰かが空襲だーと。 警報を知らせるサイレンさえも間に合わず、大急ぎで外へ出ると彼方から聞こえてくるB29大型爆撃機大編隊の轟々たる爆音、瀬戸内海の方角から真っ直ぐにこちらに向かってきます。
とっさにすぐそばの水雷部本部の防空壕へ飛びこんだ のです。

間一発、 どどど〜んと耳をつんざく爆発音、鉄筋コンクリート造りの頑丈な防空壕が激しく揺れ天井からばらばらと砂などが落ちてきます。
光海軍工廠への大爆撃がはじまり、最初の爆弾がすぐそばの 先ほどまで居た庁舎を直撃したのです。
当時どうした訳か徳山市などは大規模な焼い弾攻撃などがあっても、光海軍工廠にはそれまで何個かの爆弾が落とされたことはありましたが、大規模な爆撃はなかったのです。
付近の山に工場設備も疎開移転されてはいたものの、周囲4里と言われる大規模な
工場群ではまだ多くの人々が働いていました。また、誰もがいつかはこの日がくることは予想しておりました。
工場施設への爆撃はB29の大編隊が波状攻撃で次々に押し寄せて無数の小型爆弾を一方から順次 隙間なく大量にばらまく「絨毯爆撃」と言われるものです。
光海軍工廠の場合は海側から爆弾が落とされはじめたのです。
折悪しく私達の居た水雷部は一番に海岸に近く、魚雷を作る工場などが立ち並んでいたところで真っ先に爆弾の洗礼でした。
B29爆撃機が爆弾の雨を降らせながら一波の編隊が過ぎたころから防空壕の外の異常に気がつきました。
先ほどまで私が居た木造二階建ての水雷部本部庁舎が直撃弾を受けて早くも燃え上がっていたのです。
その頃の防空演習は防空づきんをかぶって、火災が起きたらバケツリレーで火を消し止める筈でしたが、実際にはそんな余裕すらありませんでした。
間もなく続いて二波目の編隊が迫ってきました、火の勢いは益々激しくなり 僅かしか離れていない壕の中をごうごうと風が火に吸われて吹き抜けてゆくのです。
壕の中には20人くらい避難して居たでしょうか、その中に顔見知りの丸顔の可愛いい女の子が混じっていました。
私達の水雷部には山口市の中村高女、萩市の萩高女などから先生に引率されて学徒動員で多数の若い女生徒が働いており、お洒落のしたい年頃の女の子が質素な服やもんぺ姿で冷たい鉄を削ったり、お国の為にと黙々と働いておりました。

さて、話を元にもどして、風の吹き抜ける防空壕が次第に危険に思われ、誰からか「危険だ逃げよう」と言い出しました。
二波の爆撃が終わった直後、一斉に壕から飛び出しばらばらに走り出しました。
壕の外の風景は全く一変し、もうもうたる火煙、土煙り、ごろごろと道路にはいっぱいに石ころが広がり、あちこちの工場からは火の手が上がっておりどこからともなく大勢の人達が一目散に門に向かって走っておりました。
こんな中で私はどうした訳か「これが最後」と言った気持ちは全く無く、顔見知りのおじさんが巻きキャハン(ゲートル)を解きながら走っているのを見つけて、おじさーん大丈夫? と言ったのにその人は青い顔をして返事もしないで行ってしまいました。
幸運なことに、二波と三波の爆撃の合間が少し開いていたように思えました。
光海軍工廠は敷地が広いため門までの距離が遠いのです、毎朝歩いて通う道を走って10分くらいかかったでしょうか、ごろごろの石ころ道に変わった道路は走るのに大変でした、門から出た瞬間に三波目の爆撃です。
思わず道路の側に伏せて 教えられていた通りに耳と目を両手でふさぎました。

爆弾が空から落ちてくるときは、ざーーーと言う不気味な風切り音がします。
どどーんと爆発して、まだ大丈夫生きている、 起きあがって山の防空壕までかなりの道のりを走って ようやくほっと一息。
それからもしばらく爆撃は続き、光海軍工廠は跡形も無く全滅しました。

毎朝通勤する門のそばの家に 私はいつも通勤用の自転車を置かせてもらって
いました、 しかし自転車置き場の小屋がつぶれていてようやく引き出して驚きました。
なんと自転車のサドル下の車体に破片の貫通した3センチ位の丸い穴があいているのです。
のちに母が「お前の身代わりじゃろう」と話してくれました。
爆弾の破片の飛び散る威力はすさまじく、工場の屋根などのトタン板などにはビッシリ
と穴があいていたものです。
爆撃が終わって、山に疎開していた関係者は救助のために工廠内に行くことになり、私もついてゆこうとしましたら「あんたは子供だから」と帰宅をゆるされました。
その穴の開いた自転車に乗って帰宅したのがもう日の暮れで、私の影を見つけた母の喜ぶ姿は私に とっては異様に見えたほどでした。
母は私の身を案じて当時住んでいた室積から歩いて光海軍工廠まで行こうとし、
途中で止められてしまい、帰りは遅いし もう死んだものと思っていたそうです。

明くる日 昭和20年8月15日は終戦  なんともわからない混乱した一日でした。
工廠の敷地に入ると何とも言えない異様な匂いがたちこめておりました。
防空壕で亡くなった方々の焼け焦げた遺体も数多く掘り出され、何百体の遺体を海岸で火葬にする火が遠く室積海岸からも見えました。

私は同じ防空壕に避難し、一緒に飛び出した可憐な女の子の死を知りました。
実は前日この子から絵が一枚ほしいと言われて 私はいやだと断ったのでした。

私は、水雷部本部庁舎の事務所で働いていた関係で、中村高女の山羊髭を生やした絵画の先生からご自分で書かれた絵を2枚頂いたものだったのです。
壕から出てからの逃げ道の方角が生と死を分けたのです。
私達の壕は四つ角に位置しており、4方向の逃げ道が選択出来た訳です。
結果的に海岸と、光井門の方角が比較的安全で爆撃の終わっていた方向だったのですが当時はそんなことは誰にも分かりません。
私は何のためらいも無く、いつもの通勤路(光井門)を選んだのです。なぜその道に向かったのか今でも分かりせん、自転車があった、 いつも通う道だったからかもしれません。
爆撃の終わった方角に逃げたことが幸いだったのです。
直撃弾を受け亡くなった方、不幸にして爆撃に追われる方角に逃げた人、運命はさまざまでした。

あれから五十数年が経ちました、毎年8月14日が来るたびに まあるい顔の可愛い女の子の面影をはっきりと思い起こします。    そして「絵をあげればよかった」と意地悪をしたことを悔やむのです。
山口市からは中村高女の多数の若い乙女が散ってしまいました。
もし、終戦が1日早かったなら、いや無残な戦争がなかったなら、きっと今ごろは多くの孫達に囲まれた幸せな人生を過ごされたとおもいます。
毎年8月14日には山口市の中村女子高校でこれらの方々の同級生達が慰霊祭を行っております。

子供心に愛国心を教えられ
     
花もつぼみの若桜 5尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは
      
われら学徒の面目ぞ  ああ くれないの血は燃える

この歌を合唱し、鬼畜米英を教え込まれて食べ物さえろくに無い時代をひたすら頑張った。これらの若い人達の肉体を引き裂き、焼き殺した戦争とは一体何だったのでしょう。
莫大な犠牲を払ってようやく得られた「人々が殺し合いをしてはならない」と言う悲惨な戦争体験をせめて永久に語り継ごうではありませんか。

私は以前鹿児島の知覧飛行場跡の記念館を訪れたことがあります、誰だって死にたくはない筈です。
自ら志願してお国の為に死んでいった若人、そして多くの兵隊さん、戦災で亡くなった人々、これらの方々の無念さを思うとき、
今後孫子の代までも絶対に戦争を起こしてはならないと思います。
あれから五十数年、不幸な戦禍で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
戦争の無残さを風化させないために読んでいただきたく、稚拙な文章を載せました。

この文をお読みの方でもしも関係のある方がおられましたら是非メールを下さい。


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